どうして本は今も人に読まれ続けているのか

本とは

本は友達である。

 

この比喩は私自身にあてはまります。人も社会に出ると様々な経験をするわけですが、運が良いときには傍に親切な人が現れ、運が悪いときには力になってくれる人が現れないものです。いいことばかりあるわけがありません。また、助けようとしている人にとって、落下している最中の人はキャッチしにくいものです。事態が悪くなりすぎている場合にはなおさらです。うまく手を差し伸べることができるのは専門家くらいで、一般人にはなかなか難しい。専門家というのは、医者や弁護士、整体師といった一般に「先生」と呼ばれる人たちのことです。あるいは、組織的に仕事をする人々をあげるとすれば、警察官が最もたるものといえるでしょう。警察官がいなければ地域の治安を維持することは難しい。ところで、困っているときには、できることなら他人の力を借りずに問題を解決できた方がよいわけです。しっかりした人とまわりから評価されます。しかし、この考えが根となって事態が悪化することが実によくあります。

 

少し考えたくらいでわかるようなことを他人様に尋にるのは失礼というものの考え方もあり、引き続き落下し続ける人は多い。私自身がそうでした。

 

本は強力な味方となります。しかし、便利な道具ではありません。困った時にすぐさま問題を解決するための知識を教えてくれるものではない。この性質によって痛い経験をされた方も多いのはないでしょうか?私はこの痛い経験から、「本から得られる知識に頼りすぎてはいけない」と思うようになりました。

 

とはいっても、本は大好きです。友達です。

 

入手する方法はとても簡単で、生活圏内にある本屋や文房具屋で買えます。価格は、大人にとっても小人にとっても小遣いの範囲内です。売り手が消費者にとって買いやすい値段に設定しています。さらに安く入手したければ古本を求めるとよいでしょう。新品も中古品も書かれてある内容は同じです。本好きにとってはありがたいことに、古い書物にこそ優れた知恵が存在するという事実もある。相乗の効果によって、困った時に本を頼ることは賢い選択といえます。(頼り「過ぎ」なければよいのです。)

起源

ではこの優れた存在がいかにして存在するに至ったかを考えます。以前からあるといっても、太古の昔から存在したわけではありません。現在目の前に存在するものは、人間の技術、知恵、あらゆる経験の積み重ねの上に形成されています。

平安時代には

日本の時代を遡ると、平安時代と呼ばれるときがあります。今から1000年以上も前にあったとされる期間です。794年(なくよ、うぐいす)平安京、と覚えておられる方は多いことでしょう。

 

この時代に書かれた文学作品として有名なのが、「竹取物語」、「土佐日記」、「枕草子」です。いずれの作品も日本語を学ぶために最適な教材として、高等教育の国語の授業で採用されています。短い文や簡潔な文章の中に多くの意味を含ませてあります。ちなみに、これは個人的な意見ですが、紀貫之土佐日記の著者)は、最高の詩人だと思います。

 

文学作品があったということは、物語や随筆(日記)を記録するための道具があったということでもあります。有り難くもこれらの作品は現存していて、どこかに重要文化財として保管されています。

 

日本古典文学全集などに収録されている写真を見ると、紙によって記録されていることがわかります。しかし、文学作品と言っても現代の本のようにプラスチックを使って閉じられてはいません。実際に手にとって眺めれば、ばらばらにしようと思えば簡単にできてしまうかな、と思ってしまうくらいのものという印象を受けます。

 

海外では(中国・ヨーロッパ)

詳述するまでもなく、漢字は中国から伝わりました。記録媒体の起源については不明です。木のような硬質なものに絵が彫刻され、暗号として利用されるようになり、絵が文字になったと推測されています。

 

ヨーロッパでは、紀元前に物語が存在した。代表的なものが、ホメロスによる「オデュッセイア」です。主人公が悪党共をやっつける、という単純なストーリーです。この作品とは別なものをあげるとすれば、「旧約聖書」は外せません。非常によく出来た作り話です。いずれの作品も口述のみで伝わったとは考えにくいほどの長編なので、当時においても何かしらの記録媒体はあったはずです。今から2000年も前のことです。

 

人が生きて行くためには、地域を問わず、何かを記録し、保存することは大事なことであったといえます。必要に迫られて成立したものの結果が、本といえるのではないでしょうか。

堅苦しい

とはいうものの、どんなに有益なことが書かれてあったとしても、読む人が内容を理解できなければ「つまらないもの」として扱われます。教養のない農家の下男にとって旧約聖書の内容は退屈です。(旧約聖書の内容はつまらない。)外国語で書かれてあるテキストなら尚更です。内容が素晴らしくても読めなければ「くだらない」の一言で一蹴されます。

 

以下に、本を面白くないと感じている人が心の中で思っているかもしれないことをあくまでも私の想像で列挙します。

  • 本がなくても生きていける。
  • 難しいことは偉い人に任せておけばよい。
  • 高学歴は馬鹿だ。
  • 世の中には知らない方がよい知識だってある。

  • 本を読むと頭でっかちになる。

  • 読書をする人は陰気だ。

  • 勉強すると他人を侮るようになる。

  • 本を読むと語彙が豊富になるなんて、嘘だ。

  • 小説なんて、所詮は作り話だ。

  • 現代にはネットがあるのだから、本を読まなくても必要な情報を入手できる。

以上、10点。思うままに書き出しました。

 

いずれも攻撃的な内容です。読書をしたからと言って必ずしも物事がうまくいくほど世間は単純に出来ていないものです。

 

1つを取り上げるとするなら、「高学歴は馬鹿だ」が本を読まない人の意見としてよく耳にする内容ではないでしょうか。彼らは日頃、本を読みません。もちろん、こんなふうに考えていない人もいるでしょう。すべての人が物事を同じように考えるわけではありません。

 

たしからしいことをいうなら、高学歴の人の中に知力の低い人はいるはずです。というのは、テストで点を取る能力と生活の糧を得る能力は全く別物だからです。こういう人物は組織の中で仕事が全く出来ず、周りの人とまともに話をすることができません。個人の性質と仕事の性質のミスマッチももちろんあるでしょう。

 

しかしながら、高学歴といわれる人の中にも知力の高い人は存在します。こういう人は、仕事ができて、周囲の人々と良好な関係を築くことが出来て、生活する糧を得るために困らない。

 

同様に考えれば、学歴が低いとみなされている人の中にも知力の高い人は存在するといえます。そういう人は知力の高い高学歴と同程度の生活的満足を維持し続けます。要するに、テストで点数を取るために机に向かうことだけが勉強ではない、ということです。

2000年後に本は存在しているか

結論からいえば、未来を正確に言い当てることはできないので、わかりません。しかしながら、世界から紙がなくなっていることは十分にありえます。未来の可能性についてなら誰もが何とだっていえますが、自分の会社を売り込もうとるIT企業の経営者がプレゼンテーションで述べるような「大勢を勇気づけるような意見」は彼らの饒舌にその役割を譲ることにして、私個人では紙によってできた本はなくなっていないと思います。

コンピュータと紙媒体の競合

というのは、コンピュータの画面を見続けることは人体にとってより自然でないと思うからです。長時間モニタを凝視して目の奥が痛くなったことがある方は多いのではないでしょうか?気分が悪くなったことのある方もおられると思います。もしかすると科学技術の進歩によって、この問題は解決されるかもしれません。長時間テレビゲームをしていても視力が低下しないようになることもありえます。あくまでも可能性の話です。現時点ではどうかというと、PCに向かって作業しているときよりも、外に出て歩いているときに空を見たり山を見たり、星や月を見たり、道端の植物を見ているときは心が落ち着くと感じる人の方が多いのではなのではないでしょうか?自然に近いほど目にとって負担は小さい。だから、書くとか記録するためなどという機能が他のものに取って代わったとしても、木がもととなって出来た紙はなくならないし、紙を利用した知恵の結晶である本は、電子媒体とは別の性質を持つものとして残り続けるのではないかと思います。紙媒体と電子媒体は、ある部分に関心を置くと、性質が全く異なります。

 

だから、いくらコンピュータがデータを保存するために便利だといっても、また技術が進歩する過程を終えて完成したとして、紙が存在する余地はあり続ける。電子媒体がデータ保存の市場を全て支配することはない。

 

しかしながら、そのほかの機能である「伝送」という役割に関しては、いつかその役割を終えると思います。

なぜ人は本を手にすることをやめないのか

紙媒体である本はその形が出来上がってから形状がほとんど変化していないはずです。人が生活するための必要から生まれたものは使う人に長期間採用され続けます。日本人の食生活に例えるなら、米みたいなものです。米は大量に生産することができて長期間保存できます。なくならないものには、外側からどう力を及ぼそうとしたところで、消しきれない理由なり性質があるものです。

 

電子媒体はとても便利です。一度使うことに慣れてしまうと手放せなくなります。生活の糧を得るための道具として使用しているなら尚更です。しかし、効果が絶大なら副作用もそれなりにあります。上手に使える人はその恩恵を受けることができて、うまく使えない人は便利さの犠牲となります。使用方法には気をつけた方がよい。たとえば、ネットを通じて誰かに危害を加えるような行為は慎むべきです。心が弱っている人に追い討ちをかけてはいけない。また、セキュリティが低い組織のシステムから個人情報を盗み出してはいけない。そのようなことは、いくら高度な技術を使って成したとしても、物事の性質は「窃盗」と変わらないので長期的に考えれば加害者の私生活にとってマイナスとなります。使うまでは簡単だが扱い方が難しい。これが電子媒体の欠点です。利点については詳述するまでもないでしょう。

 

これに対して紙でできた本は扱い方がとても簡単です。ただ開いて面白がって読んでいればいい。書かれてある知識を上手に使えるようになるまで時間はかかることもあるだろうが、じっくりと読んだ単語は頭の中に一応蓄積されます。わからないならわからないなりにでも目を通しておけばよく、あとになって単語と単語が結びつき、確かな知識となり、経験によって知恵に変わる。読んでいる最中に他人に迷惑をかけることはまずありません。

 

使い方が単純にして、効果は絶大。このことを経験者はよく知っていて、成功し、これを年下の若い人々が見て真似をする。この繰り返しによって、本は今まで人に読まれ続けてきたのではないでしょうか。

おすすめ書籍

 

[block][block]バビロンの大富豪 「繁栄と富と幸福」はいかにして築かれるのか

バビロンの大富豪 「繁栄と富と幸福」はいかにして築かれるのか

 

 お金について真剣に考えたい人にお薦めいたします。「貯蓄することの大事」さが書かれてあります。次に、「投資することも大事」だということが書かれてあります。シンプルなストーリーで明らかな作り話なのですが、洗練されています。読んですぐに効果が出るものではないと思います。というのは、「投資」を学ぶためには時間がかかるからです。5年後の自分のためにぜひ、今お読みになってはいかがでしょうか。